金剛寺の自己紹介・真言宗の教え
Temple

金剛寺の自己紹介

埼玉県朝霞市にあります金剛寺(こんごうじ)の正式名は「不動山(ふどうさん)・光照院(こうしょういん)・金剛寺(こんごうじ)」といいます。
真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)という宗派に所属しているお寺です。
500年ほど前の室町時代に始まり流山剣士という土豪武士から修験者(しゅげんじゃ)になった人が、
天正3年(1575)頃に戦乱の終りと人々の幸福を願ってご本尊・不動明王さまを祀り、
文禄年間(1592~1595)に堯諄(ぎょうじゅん)というお坊さんが開山(最初の住職)となって、正式なお寺になりました。
金剛寺には、江戸時代に「寺子屋」がありました。寺子屋は、子供たちに文字やソロバンなどを教えた学校でした。
寺子屋で教わった子供たちのことを「筆子」といいました。金剛寺のお墓の中に「筆子○○人」と彫られた墓石(石塔)があります。
筆子の人たちが先生のために建てたお墓で「筆子塚」といい、金剛寺には二つの筆子塚があります。
金剛寺は、明治6年になって全国に小学校が造られるようになると、「善進(ぜんしん)小学校」「新輝(しんき)小学校」という小学校になりました。
昭和のはじめには「膝折村尋常(ひざおりむらじんじょう)高等小学校分教場(ぶんきょうじょう)」となり、やがて朝霞第二小学校ができて、
先生も子供たちも移っていきました。

住職ご挨拶

住職ご挨拶

埼玉県朝霞市根岸台にあります金剛寺を預からせていただいております。

33代目住職の、岡野忠正(おかのちゅうせい)と申します。

「住職」としてお寺に住んでおり、ご本尊(ほんぞん)さまにお仕えして、皆様の幸福を祈り、亡くなった方への供養をし、お寺の管理をしております。

金剛寺は真言宗智山派の寺院で、4月には「本尊不動明王大護摩供」
5月には「戦没者精霊追悼法要」、8月のお盆には「盂蘭盆供養法要」、3月と9月のお彼岸には「総霊廻向/彼岸会法要」など、他にも様々な行事を1年を通じて行っておりますので、お気軽にお立ち寄りください。

金剛寺の建物について

金剛寺の建物について

金剛寺で一番大きくて大切な建物は、「本堂(ほんどう)」です。昭和38年に建てられたものです。もともとは瓦屋根でしたが、平成16年に銅板の屋根に直しました。

金剛寺で一番古い建物は「山門(さんもん)」です。今から225年くらい前に建てられたもので、「薬医門(やくいもん)」という形式の門となっており柱の中心と比べて、屋根の中心線(棟)が前にずれているのが特徴です。

金剛寺の仏

本堂(ほんどう)には「ご本尊(ほんぞん)さま」がまつられています。金剛寺のご本尊さまは、「不動(ふどう)明王(みょうおう)さま」です。
いろいろな願いごとを聞いて、元気に幸せになる力と智慧(ちえ)を授けてくださる仏さまです。

金剛寺の山門について

山門は、ケヤキという堅い木で造られていて、クギを一本も使わずに組み立てられています。屋根は茅葺(かやぶ)きといって、ススキのようなカヤという
草の長い茎やワラを束にして積み重ね、縄で結びつけてあります。ワラを70束、カヤを600束も使っています。
山門のそばの塀は、「練塀(ねりべい)」あるいは「瓦塀(かわらべい)」といいます。
本堂の屋根を直したときに下ろした瓦(かわら)と、ワラを混ぜた粘土とを交互に積み上げて造りあげてあります。
山門の前には石でできた「仁王(におう)さま」が立っており、向かって右が「阿形(あぎょう)」左が「吽形(うんぎょう)」です。
お寺全体と心の 正しい人を守るために、恐い顔でにらんでいます。
また山門の右手には、「修行大師像(だいしぞう)」があり、真言宗を開かれた「弘法(こうぼう)大師さま」のお像です。
台座は、木の化石「珪化木(けいかぼく)」でできています。

金剛寺の稲荷神

赤い鳥居があるのは、「お稲荷さま」です。前にいるのは、犬ではなくて、お稲荷さまのお使いをする「キツネ」です。
巻物をくわえたのがオス、玉をくわえたのがメスです。本堂の横に、大きな「シイの木」がはえています。100才くらいの木です。
朝霞市から保護樹木に指定されています。

真言宗の教え

真言宗の教えについてご紹介致します。

真言宗の教え

宗史

平安時代、弘法大師空海は中国から密教を伝え、真言宗を立教開宗しました。それより約三百年を経て、興教大師覚鑁は高野山に大伝法院を建立して、
真言宗を興隆、その後紀州に根来山を開創しました。やがて、根来山は秀吉の焼打ちに遭い、智積院学頭職・玄宥僧正は、難を京都に避け、東山に智積院を再興しました。後に智積院を中心に活躍していた全国三千の寺院は真言宗智山派として結集し、智積院を総本山と定めました。

教え

叡智そのものであり、根源の光そのものである大日如来は、太陽の光のようにあらゆる時代、
場所にさまざまな姿で現われて、すべての生き物を救うために説法をしています。
宇宙間のすべて花鳥風月草木に至るまで大日如来の説法です。そして弘法大師は、本来成仏している自己の発見を「即身成仏」という言葉で表しました。
すなわち、密教以外の教えは「三劫成仏」(さんごうじょうぶつ)といい、無限に長い間の修行によらなければ成仏できないとしますが、
弘法大師は、この身このまま「即身」に「成仏」が実現するとしました。なぜなら、私たちと大日如来は本来同じであるからです。

ご本尊

大日如来を始めとする、曼荼羅(まんだら)諸尊
総本山智積院 金剛界曼荼羅
総本山智積院 ご本尊・大日如来
総本山智積院 胎蔵生曼荼羅

根本経典

『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』

読誦経典

『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』、『観音経(かんのんぎょう)』などの経典、
「光明真言(こうみょうしんごん)」などの諸真言・陀羅尼(だらに)ほか。

ご宝号

「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」(弘法大師のご宝号)
「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」(興教大師のご宝号)

詠歌・和讃

密厳流(密厳流遍照講)

教化目標

生きる力 仏さまに祈り、仏さまと出会う

真言宗と弘法大師

弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学します。大学では中国の哲学、思想を学びますが、やがて立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになりました。
そして24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えをまとめた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。そしてある夜、大和国久米寺の東塔の下に仏教の究極の教えである密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』
(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称は『大日経』)があることを夢で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいました。
しかし『大日経』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にはいません。
そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心したのです。
延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは九州長崎の松浦郡田の浦から遣唐使船に乗り長安をめざします。
海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出帆して半年後、やっと唐の都・長安に到着します。
長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐりあいます。恵果阿闍梨は自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、ここに、お大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。
そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝するのです。
帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。
その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。
そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されるのです。

寺院名 不動山 光照院 金剛寺
住職 岡野 忠正
所在地 埼玉県朝霞市根岸台3-4-3
電話番号 048-461-4511
FAX番号 048-461-2107
メールアドレス kongouji@rondo.ocn.ne.jp

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